蓼(たで)食う虫 - wakamatsuさんのブログ
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遅い夏休みをとって蓼科(たてしな)へ行ってきた。
山は蓼科山、湖は蓼科湖だが、その所在地は立科(たてしな)町という。
立科町のweb には、
芦田村・横鳥村及び三都和村は蓼科山麓に発達した地方であり、関係村で組織する連合体にすべて蓼科の名を冠して住民感情の融和を図ってきていた。
また、三カ村組合立蓼科高等学校があったことから、住民のほとんどが新村名「蓼科村」は既定のことと認めていた。しかし、当用漢字に「蓼」の字がないことと、蓼科山は古代立科山と呼ばれていたことから「立科村」に異議なく決定された。その後立科町となりました。
とあり、当用漢字に蓼の字がないことが立科町の命名の根拠になっているという。
昨日(2014/09/11)のマイナビに
東京都を代表する川の謎--隅田川があるのに墨田区、多摩川側なのに二子玉川
という記事が掲載されていた。この記事によると、墨田区については、
「墨田区」の呼び名は、昭和22年(1947)に向島区と本所区が一つになって誕生した際につけられたもの。
昔から人々に親しまれてきた隅田川堤の通称"墨堤"の「墨」と、"隅田川"の名の「田」を合わせたのだ。
ちなみに、「隅田」の漢字を推す意見がもっとも多かったというが、当時「隅」という字が当用漢字でなかったことと、隅田川が法律で正式な名称とされていなかったことから、「隅田区」の誕生に至らなかったんだとか。
と書かれており、多摩川については、
現在の東京都西部一帯を古くは「多麻」と表記し、それゆえに「多摩」「多磨」「玉」などとも書かれるようになり、そこを流れる川の名も「多摩川」「玉川」と様々に書かれたらしい。
平安時代の『延喜式』では「多麻」であり、同じ時代の『和妙抄』には「太波川」とある。
これが正しいという決まりはなかったのだろう。
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また、江戸の町の水源となって人々の暮らしを支えた「玉川上水」の完成も、「玉川」をポピュラーなものとするのに一役買ったことは間違いない。
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江戸時代にあって、多摩川・玉川はそれぞれ適宜使い分けられていたということで、それは現在とさほど変わりがないのかもしれない。
東京都には多摩市があり、神奈川県川崎市には多摩区もあるが、多摩川も玉川も、多摩市も多摩区も、すべてルーツは一緒なのである。
ちなみに河川としては多摩川が正式の名称である。
などと記されている。
「たてしな」には、昔の山の名にあるとはいえ、立科と書くよりも、草花の蓼(たで)の字を冠する方が風情があると思う。
蓼科町、隅田区、多摩川とするのが私の好みだが、これこそ「蓼食う虫も好き好き」というところか。
因みに、蓼は茎や葉に苦味があるのに、これを好んで食べる蓼虫という虫がいることからそう言うようになったとか。
この苦い蓼を、人もまた刺身のつまや蓼酢として食すというから面白いものだ。
蓼 蓼虫
wikimedia commonsより
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